グイノ・ジェラール神父の説教



2019年

  C 年

年間第2主日から

年間第12主日まで



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年間第8主日


       年間第2主日 C年  2019120日   グイノ・ジェラール神父

           イザヤ 62,1-5    1コリント 12,4-11   ヨハネ 2,1-11

  預言者イザヤは、イスラエルの民の花婿として神を紹介しています。 神はすべての人の幸福と喜びの泉です。 預言者ホセアから、雅歌の書を通して、そしてイザヤの書の終わりまで、聖書全体は人間と神の間に結ばれた契約を婚礼の契約として教えています。 この契約は、いくら人間の弱さと裏切りがあっても、忠実な解消できない絆です。

  カナの婚礼の出来事は、神が永遠の愛で私たちを愛しておられることを思い起こさせます。 イエスの内にイエスによって、神は私たちの不足し欠けているところをすべて満たそうとします。 ぶどう酒に変化した水は、決して取り消すことのできない絆で、イエスが私たちと一致していることを表しています。 私たちの人間性に与ることで、イエスはご自分の神性に私たちが与かれるようにしました。 今から後「わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできません」(参照:ローマ8,39)。

  カナの婚礼に誘われていたイエスの母マリアは、ぶどう酒が足りないことに気がついて、直ぐそれをイエスに教えました。 「ぶどう酒がなくなりました」と。 この言葉は、次の意味も表します。 「彼らは婚礼の喜びとお互いを愛する幸せを失っています」と。 なぜなら、聖書の教えによると「ぶどう酒」は、喜び(コヘレト9,7)・愛(雅歌5,1)・命(箴言32,6)・神の契約(イザヤ25,6、創世記 27,28)の象徴ですから。

  私たちが生きている間、母マリアが毎日私たちの傍にいて下さるのは、特に物質的な物や霊的に不足しているものからくる苦しみを耐え忍んでいる人々を私たちが大切にするためです。 愛の欠如している人類のために信頼をもってイエスに向かって執り成すこと、また彼らの幸せのために具体的に行なうことを、母マリアは私たちに教えています。

  神の救いを受け留めることは、キリストが私たちのすべての不足、過ち、弱さ、罪を背負って一致することを望むことです。 イエスの愛はすべてを変化させる力をもっています。 イエスは私たちの生き方のにがい水を、永遠の喜びのぶどう酒に変化させることが簡単にできます。

  ですから、母マリアの賢い勧めに耳を傾けましょう。 「イエスが何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と。 「キリスト者の一致」の週間の始まりに当たって、愛の婚礼の準備をするように、母マリアは私たちを誘います。 いつか「あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から」(参照:黙示録5,9)人々がこの婚礼に来るからです。 この世界が平和や幸福や揺るぎない一致を味わうように、一人ひとりは自分のカリスマに応じてイエスの働きを早めましょう。 「キリストの計り知れない富」(エフェソ3,8)を現すために、聖霊の教え導きによって自分の才能とカリスマを良く使いましょう。

  私たちが世界のために執り成すことで、イエスはご自分の栄光を示し、信仰の道に人々を引き寄せます。 私たちの傍にいるイエスと母マリアは、私たちの人生を照らし、その中に神の愛を注ぎます。 優れたぶどう酒のように、神の愛は聖霊の恵みで人を豊かにします。 信仰の証しと執り成しの祈りによって、大勢の人が神の婚礼に出席し、溢れるばかりの愛の素晴らしいぶどう酒を味わうことができるように、個人的にも、共同体的にも工夫しましょう。 アーメン。



         年間第3主日 C年   2019127日    グイノ・ジェラール神父

             ネヘミヤ8,2-68-10  1コリント12,12-30  ルカ1,1-414-21

  今日の朗読は神の言葉の大切さを私たちに改めて教えています。 神の言葉はキリストと共に私たちを一つの体として形作り、この言葉を開かれた心で受けると非常に豊かな実を結ぶようになります。 ユダヤ人たちにとって、神の言葉なしに生きることは到底無理でした。 バビロンの追放から彼らはすべてを失いましたが、それにも関わらず、モーセの律法と預言者たちの教えを聞くために、彼らは集まる習慣を失いませんでした。 今日まで、この一定の習慣がイスラエルの人々のうちに、揺るぎない希望を生み出します。

  私たちの生き方を照らしながら神の言葉は隠れた罪を現しますが、同時に神の言葉は希望を強め、溢れる喜びを湧き出させます。 「悲しんではならない。 主の喜びがあなたを守る城壁です」と律法学者である祭司エズラは励まします。 信頼をもって神の言葉を受け止め、特にその言葉が私たちの犯した罪を現すとき、確かに神の喜びは私たちを守る城壁です。

 今日の詩編は、神の言葉が私たちにどのように良いことを行なっているかをよく表しています。 「神の教えは完全で、魂を生き返らせ、神の定めは正しく、心の喜びであり、神のみ旨は清く、目を開く」(参照:詩編19,8-9)と。

 故郷の会堂で、イエスは預言者イザヤの巻物のある箇所を読みました。 不思議なことにイスラエルの伝統的なやり方を無視し、その読まれた箇所についてイエスは全く説明しませんでした。 イエスは権威をもって「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(参照:ルカ1,21)と宣言しました。 事実、宣言された言葉を開かれた心で聞くなら、神の言葉はあっという間に言われたことを実現します。

  さらに神の言葉を注意深く聞くことによって、聖霊が私たちに神の愛と慈しみの神秘を発見させ、悟らせます。 喜びと光の泉である神の言葉は、私たちの心を溢れるほどの感謝で潤します。 神の言葉を受けることによって、聖霊がキリストと共に私たちを一つの体、一つの心、一つの霊とします。 事実、神の言葉はキリストの教会として私たちを集め、そして私たちを全人類に救いの開かれた門とします。

  宣教活動の始めにイエスを伴った聖霊は、私たちを教え導く同じ聖霊です。 これこそがイエスご自身の約束でした。 「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(参照:ヨハネ14,26)と。 ですから、神の言葉への飢えと渇きが私たちに与えられるように、聖霊に願いましょう。 もし私たちが心を大きく開くなら、今日こそキリストの救いが私たちのうちに豊かに実現されるでしょう。 そしてイザヤの言葉を借りたキリストが言われるように、今年が「主の恵みの年」でありますように。 アーメン。



        年間第4主日C年   20192月3日  グイノ・ジェラール神父

        エレミヤ 1,4-19   1コリント 12,31-13,13    ルカ 4,21-30

  マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音史家たちは、イエスの生涯について自分たちが見たことや聞いたことを、福音を通して単純に宣べ伝えました。しかし彼らは福音のなかでイエスが誰であるかを書かずに、イエスご自身に任せました。なぜなら、イエスは世間に自分を知らせ、啓示するユニークなやり方を持っていたからです。

 「いったい、イエスは誰でしょうか」。ナザレの人々はこの質問をしました。預言者イザヤが告げ、イスラエルの民がずっと待っている「救い主」は私だとイエスは、はっきり言葉に出さずに宣言しました。ナザレの人々は、一瞬びっくりしたのち、急に疑いが人々を襲ってきました。彼らにとってイエスは待ち望まれているメシアではあり得ません。ナザレの人々は、昔からイエスと彼の家族や親戚をよく知っているからです。ナザレの人々は「キリストの口から出た恵み深い言葉」を忘れて、外面的な眼差しでイエスを見ているので、彼こそが神が遣わされた救い主であることを見分けることができませんでした。

  出エジプト記は「ファラオの軍隊の陣とイスラエルの陣との間に入った、真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた」(参考:出エジプト14,20)ことを教えています。教会の教父たちと神秘主義者たちは、この出来事のうちにキリストの神秘を発見しました。しかし、ナザレの人々はイエスの内にただ人間を見ますのでキリストの神秘性を発見できずに真っ黒な雲に包まれています。もし彼らがイエスを信じているなら、きっとイエスの内に神の光を見、そして彼の「内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形を取って宿っている」(コロサイ2,9)ことを発見するでしょう。

  ナザレの人々の信仰を生み出すために、わざとイエスは、昔イスラエルの民のために神から選ばれた預言者エリヤとエリシャのことを思い起こさせます。異邦人の人々はこの二人を通して、預言者に与えられている聖霊の賜物を発見しました。サレプタのやもめとシリア人ナアマンは、普通の人のうちに神の力が働いていることを認めて、神に感謝しました。預言者たちの外面的な姿の内に異邦人は神の選びの神秘を発見しました。サレプタのやもめとナアマンの話を思い起こすことによって、ナザレの人々も同じ発見をするように、イエスは彼らを招きました。

 イエスはナザレの市民に属するだけではなく、彼は「肉となった神の言葉」であります。イエスは「わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1,14)と聖ヨハネは証ししています。イエスはナザレの人々が自分自身を信じるように誘いましたが、彼らはイエスを捨てて追い返しました。とんでもない怒りを発揮して、イエスを殺そうとしました。しかし不思議なやり方で逃げることによって「自分の命が神の手の中にあることを」イエスは証ししました。

 イエスは「自分の民のところへ来たが、民は彼を受け入れなかった」(ヨハネ1,11)と聖ヨハネは証ししています。弟子のヤコブとヨハネがサマリアの人々に対して行いたかったように、火を降らせ、彼らを焼き滅ぼそうとはイエスはしませんでした。(参照:ルカ9,54)。むしろイエスは神に逆らう人々の暴力を背負いました。故郷の人々を大切にしながら、愛をもってイエスは「強く忍耐し、いらだたず、すべてを耐え忍び、すべてを信じ、すべてを望み、彼の愛はいつまでも耐えることがありません」(参照 :1コリント13,4-8)。

 キリストの全生涯と教えは、愛の勝利を宣べ伝えます。すべてを信じ、すべてを赦し、すべてを希望するこの愛で、私たちは愛されています。ですから、イエスについてもっている私たちの疑いを信仰の叫びに、私たちの怒りを感謝の歌と賛美の祈りに、私たちの否定の心を思いやりの心に変化させることが出来るように自分自身を神に任せましょう。今日の詩篇と共に私たちの希望を宣言しましょう。「神よ、あなたの正義と救いのわざを私は昼も夜も告げ知らせます。神よ、あなたは私の希望、私はいつもあなたをたたえます」(参照 :詩編71)。アーメン。



            年間第5主日  C年  2019210日  グイノ・ジェラール神父

                   イザヤ 6,1-8  1コリント 15,1-11  ルカ 5,1-11

  今日の典礼の三つの朗読は、神との出会いと与えられる使命について私たちの注目を集めようとします。神との出会いを体験したイザヤ、パウロ、ペトロの3人は、最初の恐れを乗り越えて、それぞれが受けた恵みに熱心に応えました。なぜなら、とても珍しく忘れがたいこの三つの出会いは、人間を神の神性の前でおきましたから。

  エルサレムの神殿の中で、イザヤは神の栄光とその偉大な力の証人となりました。彼は畏れのあまりに「災いだ。わたしは滅ぼされる」と叫びました。しかし清められた後、彼は神に遣わされた者となることを自由に決意しました。使徒パウロは、コリント教会の人々に、自分がキリスト者の迫害者であったにも拘らず、他の弟子たちと同じように、復活されたキリストと出会ったことを証ししています。自分が「月足らずで生まれたような者…使徒たちの中でもいちばん小さい者…使徒と呼ばれる値打ちのない者」であると言っています。しかし、パウロはキリストの神性を見たので、福音を宣べ伝えるために「他のすべての使徒よりずっと多く働く」権利と義務を持っていると説明しました。

  ゲネサレト湖畔で、ペトロと彼の仲間たちはイザヤやパウロと同じような神との出会いを体験します。この出会いをするために特別な心構えをしてはいませんでした。不思議な漁の出来事が、彼らがキリストに従う切っ掛けでした。ペトロもイザヤのように避けられない畏れ(畏敬)を感じました。ペトロの舟に座っているイエスは、ナザレの大工というだけではなく、全く違った者だと悟りました。ペトロも一緒にいた彼の仲間たちも、イエスは神性がある方だと分かりました。その理由で彼らはすぐ、すべてを捨ててイエスの後に従おうと決めました。

  「群集が神の言葉を聞くためにイエスの周りに押し寄せている間に」ペトロ、アンドレ、ヤコブ、ヨハネは、舟から上がって網を洗っていました。彼らは仕事がとても忙しく、イエスの説教を聞く暇がありませんでした。彼らは夜通し苦労しても何もとれませんでした。イエスの話を聞くよりも次の漁の準備をすることの方が大切なことでした。しかしイエスがペトロの舟に乗ったとたん、イエスの神性はペトロとその仲間の人生をひっくり返します。彼らが畏れ(畏敬)の反応を抱いたことがよく分かるでしょう。しかしその畏敬はイエスと共に親密に生きる喜びへ移ることになり、彼らはキリストの弟子になりました。

  神と出会うことによって人は自分が罪人だと認めることになります。イザヤもパウロもペトロも自分が罪人だと言う認識を持ち、自分と神との間に大きな隔たりがあることを畏れ(畏敬)の内に体験することです。この隔たりは次の事実から来ます。神は聖なる方であり、私たちは不完全な者です。神は愛で満ちていますが、私たちは愛に乏しい者です。神は忍耐強く、怒るに遅く、直ぐに赦す方でありますが、私たちは我慢できない者、怒りっぽい者、赦しにくい者、そして自分の気持ちをコントロールすることが難しい者です。

  しかし、イエスは「恐れることはない」と私たちを励ましています。私たちを救い、導くために聖なる神、インマヌエルとして、イエスは直ぐ傍におられます。イザヤやパウロやペトロなど、他の数え切れない人々のように、私たちも神の呼びかけに応えました。ですから、信頼の内にイエスに忠実に従いましょう。教会の秘蹟と個人の祈りの中で、イエスと出会うことによって私たちが喜びの内に自分の信仰を周囲や至るところで宣べ伝え証ししましょう。アーメン。



       年間第6主日 C年   2019217日   グイノ・ジェラ−ル神父

           エレミヤ 17,5-8   1コリント 15,12,16-20   ルカ 6,1720-26

   私たちの前には、不幸の道と幸福の道という二つの道が整えられていると預言者エレミヤは説明しています。 すべての人はよい選びをするように招かれています。 今日の詩篇はエレミヤの教えを繰り返し、そして、山のふもとでイエスは「ある人は幸せな人」と「ある人は不幸の人」と言いながら、人々を区別することをはっきり教え宣言します。

  聖書の中では、ただ二つの道しかありません。 この道のテーマが聖書全体を満たし、特に申命記の書の中で強く著します。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く…わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。 あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るように」(参照:申命記301519)と。 従って幸せに生きるために、また安定した生き方を送るために、私たちは神が望まれる選びをしなければなりません。

   避けるべき誘惑は、自分自身と自分が持っているものの内にあるので、自分に信頼を置くことです。 また関係のある人々や自分をよく知っていて尊敬や感謝を持っている人たちに盲目的な信頼を示すことも危険です そうすることで、人は神に信頼することを忘れるからです。

  神と神の命の言葉に対して揺るぎない信頼を置くので教皇、司教、司祭、キリスト者たちはいつの時代にも嘲りを受け、軽蔑され、迫害されています。 世間はなぜキリスト者たちが皆と違って、時の流行を追わずに、新しい生き方を退けているかを全く理解していません。 人々は神の愛の計画と人間を尊敬しない態度を見分けないで、キリスト者の教えと生き方が邪魔なものだと思い込んでいます。 大勢の人が勧めることに従うことはしばしば出口のない袋小路に導きます。

  迷わないように、道を外れないように、私たちは幸せを探し求めながら神の永遠の命の言葉を人生の土台とします。 キリスト者である私たちは、主にあって、事実をはっきり見て、人間の状況を賢く見極め、人を自由にし、人を救う言葉を宣言し続けるのです。

  天の喜びを完全に味わうように、イエスは私たちを幸福の道に導きます。 この幸せが未来を約束されても、決して幻や見せかけの幸せではありません。 「いつか、あなたがたは満たされる。  いつか、あなたがたは笑うようになる」と言われるイエスの言葉が「今、飢えている。 今、泣いている。 今、迫害されている」と対照をなしています。 確かに、これらの約束の言葉は明日のための約束です。 「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」と聖パウロは忠告しました。

  しかし、私たちの人生は永遠の命を目指しているので、未来に向って信仰の内に希望することには意味があります。 キリストの復活、そして私たちの体の復活は、神は「生きている者の神」であることや「命の神」であることを思い起こさせます。 私たちは復活の状態をはっきり分かりませんが、神の言葉に揺るぎない信頼を示しています。 預言者エレミヤや聖パウロが行なったように、私たちももっと遠く、もっと深く見るように励まします。 「目に見えないものを見ているようにして」(参照:ヘブライ11,27)と勧めています。

  ですから、信頼と希望で満たされている眼差しが、私たちに与えられるようにイエスに切に願いましょう。 アーメン。



         年間第7主日C年   2019224日    グイノ・ジェラール神父

        サムエル上26,27-912-1322-23  1コリント15,45-49  ルカ6,27-38

   今から2500年前、知恵のある孔子は次のように言いました。「あなたがあなた自身のために望まないものは、他人にそれをしてはいけません」。また、ギリシャの哲学者ゼノンは孔子の200年後似たような格言を残しました。「やりたくないことは、誰にもさせないでくれ」と。さらにゼノンから150年後に有名な律法学者ヒデルは、ユダヤ人の伝統の中に次の諺を入れました。「あなたが好きでないものはあなたの隣人にしないこと。これこそ律法です。」

   イエスはこの昔の否定的な勧めを越えるように勧めています。イエスにとって愛することは他人に悪いことをしないということだけではなくて、善によって悪に応え打ち勝つことです。愛することは何も期待せずに、無償で友だちであろうと、敵であろうとその人の幸せを望み、良いことをすることです。確かにイエスは全ての人を愛するように勧めています。たとえその人が私たちを批判する人、悪口を言う人、迷惑をかけ自分に反抗する人、また自分の生き方・考え方・服の着かたなど私たちに逆らう者であっても愛するようにイエスは勧めます。私たちが人に対して怒ったり、いらいらする理由は、その人に対して反感・偏見・恨みを持っているからです。その上私たちは人から悪口・偏見・悪意をたびたび受けています。これに対して皆さんはどのように対処しますか。

   福音の答えは明らかです。悪に対して私たちは善によって応えます。私たちを傷つけた人たちのために赦し祈ること、彼らに友情の手を差し伸べること、それは隣人愛への第1歩です。私たちも他人も幸せになるように、絶えず私たちを赦し・助け・守るために愛の力を尽くす神を真似るようにイエスは勧めています。「あなたの天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。神が私たちに憐み深い神だからこそ、私たちは隣人に対して、友だちであろうと敵であろうと憐れみ深い者とならなければなりません。「あなたは敵を愛しなさい。そうすれば、いと高き方の子となるでしょう。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」とイエスは教えています。

   憐み深い人となること、それは受け止める恵みであり聖霊の賜物です。神だけが私たちにご自分のように行動するようにさせることができます。神を真似ることは、大きな報いを引き寄せます、とイエスは断言します。憎しみの態度に対して愛の行いで応えるなら、そしてまた自分を傷つけた人を赦すなら、私たちは人間的な正義から遠く離れた恵みの世界、すなわち無償な愛の世界に入るようになります。言い換えれば、人間的な反応から私たちは憐み深いいと高き方の子の態度に移されます。コリントの信徒への手紙によって、聖パウロが教えているように神のように行うことは、私たちが「天に属する者になり」、「私たちに命を与えるために天から降ってきたキリストの似姿になる」のです。アーメン。



        年間第8主日  C年 201933日    グイノ・ジェラ−ル神父

             シラ書 27,4-7    1コリント 15,54-58  ルカ 6,39-45

  「木の手入れの上手下手は実で分かるように、心の思いは語らいによって分かる」(フランシスコ会訳)と賢い人であったシラさんは教えています。 それに対してイエスは次のように加えました。 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 …人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」と。 私たちが実らない人生を歩まないために、活動的な行動の証しを与えるように、聖パウロは私たちを励ましています。

  批判する人、悪口を言う人、中傷する人、自分の内に悪意のある心を育てる人は、皆、嫉妬、妬み、偽り、不和の実を結んでいます。 この世ではこのような人が多いので、私たちが忍耐や慈しみや親切を示すようにイエスは誘います。 「神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます」(参照:マタイ5,45)。 神の秘密はとても単純です。 と言うのは、神がご覧になるのは、今の私たちではなく、過去の私たちでもなく、私たちがどうしてもなりたいという事、即ちキリストに贖われて栄光に包まれている私たちの永遠の姿を神はご覧になります。私たちの使命の特徴とは、神の眼差しのに既になっている者となることです。 問題は私たちが神の直ぐそばで、神と共に聖性への道を歩みたいかどうかということです。 何よりも先ず神の前に、そして人々の前に、どのような聖霊の実を結びたいのかという問題です。

  私たちの弱さと誤りにも拘らず、神は私たちを強く信頼しています。 私たちの素晴らしい言葉や良い決意よりも、神は私たちから具体的な行動と皆に役に立つ行いを待ち望んでいます。 天の国に入る者は 雄弁に理想を話す人ではなく、きちんと行なう人です(参照:マタイ7,21)。 時々、あるキリスト者が「私は神を信じますが、ミサには行きません」と言います。 そういう人たちは自分自身に嘘をついている上に、彼らの信仰宣言は決して彼らを弁明することができません。 実際に行なった業だけが、その人が神を信じているか、信じていないかをはっきりと現します。

  4つの短いたとえ話を通してイエスは私たちの行動と身につくべき「懸命さ、能力、親切と結果の出る行い」を紹介しました。 この人間的な長所とキリスト教的な質は神の国に向っている「キリストの弟子のプロフィール」を定めます。 キリスト者は人々を導き、慰め、励ますことができるように、どうしても賢明で親切で良い結果の出る人、経験のある人でなければなりません。 特に、親切と良い結果の出る人であるのは、私たちの感情や偏見や気持ちではなく、むしろ神を土台としていなければなりません。 そういう行いを毅然とした態度で行うことができるのは、神を土台としている保証でもあります。

   そういう訳で、私たちはキリスト者として生き、行なことができるために、聖霊が私たちに知恵と識別の恵みを与えるように絶えず祈らなければなりません。 何かする前に直ぐに行うのでなく、考える時間を取り、親切を示しながら、人に助けを与えることができたことを神に感謝することができれば、ここに聖霊が与える知恵と懸命さがあります。 自分のように隣人を愛するために、聖霊の賜物は不可欠なものです。 ですから、絶え間のない祈りによってそれらを願うのは肝心なことです。

   慈しみ・赦し・尊敬・奉仕・無償の愛の態度は、私たちをイエスに似た者とします。 この長所と質は人々について尊敬をもって話すことを教え、人々を親切に思いやりの心で見ることへと導きます。 また、この聖霊の賜物によって私たちは、具体的に役に立つ業で、神の眼差し、神の心で人々を愛することができるのです。 聖パウロが教えるように「主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄になりません」。 アーメン。



        
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